走行距離 10,011km
ついに私の紺ガエルの走行距離が1万キロの大台を突破した。達成地点は皇居前、三宅坂の交差点であった。
義理の妹を東京駅に迎えに行く途中、小雨の中での達成であった。雨の日は車に乗らないことにしているのだが、義理の妹が初めて我が家にやってくるということで、迎えに行くことにした。
オドメーターが大台を更新する時は、例えば8995キロぐらいから「もうすぐで9000キロだ」と意識するものの、たいていの場合見損なうというのがありがちなケースである。読者の方も一度は経験があろう。見損なうと結構ショックである。
今回は1万キロの大台だったことと、道がゴールデンウイーク中ということで非常に空いていたので、確かに確認することが出来、ちょっと嬉しかった。
しかし、である。なぜ人はたかが車の距離計の大台が変わったということを意識するのだろうか。1万キロ目でも、例えば1万5キロでも、一度しか来ないということに関しては変わりない。偉そうな言い方をするとそれぞれに不可逆的である。にもかかわらず、人は節目を意識する。
あとちょうど半年で私も30歳の大台を迎える。おそらく、誕生日が来ると、「おれもついに30か」などと陳腐な台詞をつい吐いてしまうことだろう。去り行く20代の日々。
でも、30歳になるからといって一日の重さが重くなるわけでもない。例えば、20代最後の一日の重さが、30歳4ヶ月と5日目の重さと変わるだろうか。変わるわけが無い。車も、9999キロからの1キロと、31456キロの1キロの重みが変わるかというと、おそらく変わらないであろう。
では、再び、なぜ人は節目を意識するのだろうか。ここまで書いて、今はっきりとその理由が分かった気がした。人は、忘れる生き物である。車が最初に我が家に来た時の喜び、新車をシェイクダウンする時の嬉しさ(紺ガエルは中古だが)、小学校の入学式が待ち遠しかった幼少の時、少し緊張した20歳の誕生日。人の記憶は、気がつくとどんどん薄れていってしまう。思い出す機会が無いと、大切な思い出が風化して行く。
そのために、人々は節目を意識するのだ。大切な思い出が、陳腐な日常の中で朽ち落ちていかないために。