日々雑感 2002年8月



2002年8月30日(金)
鰻 「安斎」リターンマッチ


折角働いていないので、なかなかこれまで行けなかったお店に昼間ランチを食べに行くことを思いつきました。
しかし、ご存知のとおり無計画な性格なので、思いついたのは11時半過ぎという、ランチを食べに行くには非常にコンペティティブな時間帯。
帰国してまた無性に鰻が食べたくなり、前回食べれず悔しい思いをした荻窪の「安斎」に一人で出かけました。
今回は、ちゃんと開いているかどうか電話で確認をし、一人にもかかわらず予約をお願いしました(基本的には、何人であろうと電話していくべきだと後ほどわかったのですが。)

荻窪は、我が家からそれほど遠くないものだと思っていましたが、お店まで約40分ほどかかりました。
荻窪の駅前の商店街には、ラーメン屋さんや洋食屋さんも多く、色々と冷やかしながらお店を目指しました。
ようやくお店にたどり着いたのですが、びっくりしました。下の写真でもお判りのとおり、このお店には暖簾が出ていないのです。前回電話をせずにお邪魔したときは、店の前まで来て、暖簾が上がっていないので臨時休業かと思って帰ってしまったことが悔やまれました。でも、トマトというカレー屋さんを試せたのでよかったことにしましょう。


お店に入ると、一階はテーブル二卓のみ。二回にもお席はあるようでした。店に入ると、メニューが出てこず、いきなり新聞を手渡されたので、昼の営業では鰻丼だけなのかと思いました。新聞を手渡されたということは結構時間がかかるはず、では白焼きを頼んでビールが飲めるといいのに、と思いながら普段は絶対読まない読売新聞(ジャイアンツのせいではないです、念の為)に目を通していたら、あっという間に鰻丼が出てきました。電話で1時過ぎにお伺いします、と言ってあったので、前もって仕事がしてあったのでしょうが、意外でびっくり。


鰻丼は、非常に繊細な感じ。たれの味は薄めで、たれだけで食べさせようというのではないというのがお店の主張であるのでしょうか。鰻は、たまたまなのかも知れませんが、写真手前半分と奥半分で味がかなり違いました。奥のほう(尻尾の方)が脂が乗って濃厚な感じ。鰻は、とても柔らかい中に香りが閉じ込められていて、何となく京都の料理を思い出させる繊細さでした。甘辛いタレでご飯をかっ込む、という鰻丼からは正反対。最初はなんだか物足りないなあ、と思っていたのですが、食べているうちにここのお店が目指しているところがわかったような気がしました。肝吸いの中には、胡麻豆腐が入っていてびっくり。お漬物のお皿に、ちょこんとプチトマトが添えられていて、口をさっぱりさせるのにとても丁度良かったです。好物のナスのお漬物も非常に美味しかった。お値段は確か2600円だったと記憶しています(もしかしたら2400円かも)。

帰るときに、「お昼は鰻丼だけなのですか?」と聞いたところ、そんなことはないそうなので、電話するときにちゃんと「白焼きをお願いします」と言えば、用意していただけるようです。最初に行ってメニューが出てこなかったので、メニューをお願いすればよかったと思いました。
ただし、サービスが悪いわけでは全くありません。ご主人は仕事一筋、という感じの方で、電話の対応も職人さんっぽい対応だったのですが、全てお一人で仕事をされているのではお忙しいに決まっています。サーブしてくれたお母さんは非常にご丁寧な、親切な方でした。

鰻は待たされるもの、という先入観が常にあるので、すぐに食べられてしまったので何だか拍子抜けで、帰り際に美味しそうな東京ラーメンの店を見つけたのでつい食べてしまい、奥さんに話したらあきれられました。


2002年8月29日(木)
正しい敬語


どうやら、美しい日本語というのが流行っているらしいと聞きました。
前の会社の新人君は、学生言葉が抜けずにいろいろと怒られていました。
先輩に向かって、「昼食は召し上がりますか」と言おうとして、「めし、喰われますか?」という物凄い敬語表現をしていたときには大笑いしました。
あと、帰国子女の営業の女の子が、お客さんと話していて、「それはやばいですよ」というのを何と敬語で言っていいのか分からず、「それは、やぼうございます」と言ったという話を聞いて、倒れそうになりました。これは別に敬語ではないのですが、帰国子女の知り合いの女の子は、日焼けした人に向かって、「小麦粉色の肌ですね」といっていました。焼けているのか白いのかどっちやねん。

2002年8月28日(水)
ヨーロッパからの帰国

昨晩日本に帰って参りました。12日ほど離れていただけでしたが、都会を離れていたということもあって、非常に新鮮な気分です。
昔NYに住んでいたときに帰国した際には、それほど感じなかった感触でした。
早速昨晩は近所の花とらという居酒屋さんに出かけ、カウンターで隣の酔っ払いにガンを飛ばしながら、久しぶりの日本での食事を頂きました。そして、今朝はパンの買い置きがないのをいいことに、コンビニに出かけ、おにぎりとインスタントのお味噌汁を買ってきて、奥さんが寝ている間にがっつきました。

しかし、うちの奥さんは無限に眠れるので羨ましいです。飛行機の中でも10時間程度寝ていて、成田についた後6時間ほど起きていたのですが、夕食後にまた寝始めて、今もまだ寝ています。私は、以前は飛行機の中では全く眠れませんでした。今は随分と良くなって、今回も10時間程度は寝ていたはずです。ですが、いつも規則正しい生活を送っているせいもあって、時差には弱いのです。昨晩は、居酒屋でかなりがっつり日本酒を飲んだので、アルコールの力を借りて眠れました。(ちなみに花とらはおすすめです。代々木公園の駅の明治神宮よりの南側の出口を降りてすぐ、こだわりの感じられるきれいな居酒屋です)。しかし、今朝は3時に一度、5時に一度目が覚めて、仕方がないので5時半から活動を開始しています。

留守中に一番心配だった植物は無事でした。台風が東京を襲ったらしいというのをニュースで聞いたため、車に万が一のことがないかと見に行ったのですがこちらも無事。
家のドアを明けた途端に、なんだか変な匂いがしたのですが、これは真夏に12日も部屋を締め切っていたための異臭なのか、それとも単純に我が家が臭く(!)、住み慣れていたので気付いていなかっただけなのか、奥さんと悩みました。

最近、海外のどこに旅行あるいは出張に出かけても、嫌な思いをすることはほとんどなくなりました。理由を色々考えてみたのですが、一つには、学生時代などと比べて少しは裕福になっているので、お金の力で何とかなっているというのは間違いないと思います。あるいは、英語が上達したために、コミュニケーション不足から来る嫌な思いが避けられるようになったのかもしれません。今回笑えたのは、MilanのZegnaでスーツを買ったときの免税の書類を作ってもらった時に、私の住所が、Tokyo Phillipinesとなっていたことです。頼むよ。髪の毛の色のせいか???

やはり、日本は日曜日でもどこのお店もやっているし、夏の間にバカンスで1ヶ月店を閉めますなんていう店や、レストランもないし、24時間開いている店もたくさんあって、便利です。
便利でないのは、銀行(どこのATMでも24時間使えるようにして欲しい、サービス業でしょ)、クレジットカードがどこでも使えるわけではないこと、駐車場が少なくて高いこと、地方都市にドライブしに行っても案内がちゃんとしていないこと、ガソリンスタンドで値段が書いてないところがあること(普通鮨屋以外で値段書いていない店ってないですよね?)。

なんだかんだいっても、日本に帰ってくるとほっとします。でもあと一週間ちょっとで、突然やってきた夏休みは終了です。また、働かなくては。

奥さんはまだ安らかに寝息を立てています。ジムでも行ってくることにします。


2002年8月11日(日)
猛暑の川越


昔からの友人を訪ねて、埼玉の川越に行くことにしました。朝10時過ぎに出発したのですが、そのときにすでにポルシェの外気温計は37度を超えていて、車には非常によろしくない状況です。
お盆前のせいなのか、思ったよりも道が空いていたのが、唯一の救いでした。
昔からの友人が結婚をするので、新居を構えることとなり、結婚祝いを兼ねて押しかけるというのが訪問の目的です。
しかし、私にはひそかに別の目的もありました。鰻好きの私にとって、川越に来て鰻を食べずに帰るということはありえないでしょう。
奥さんは川越のジモティなので、いろいろお店をご存知で、その中から「小川菊」という店に連れて行っていただくことにしました。
お店は、大正浪漫通りというかなり渋いところにあります。



さすが川越、店構えも古く、写真で見てお分かりのように天井や階段の木材が使い込まれて飴色になっていました。
ここは、鰻の前に一杯飲むか、という感じではなく、つまみもうざくしかありませんでした。
店はテーブルと座敷で、あまり大きな店ではなく、家内制手工業を感じさせるお店でした。代々小川さん一家がやっているお店なのでしょう。
しばらく待って出てきたのが、若干焦げ目のついた鰻重。久しぶりに焦げ目が付いた鰻重を食べたのですが、非常に香ばしくてよいです。
中はねっとりとして、臭みもなく、外側のぱりっとした感じと中のねっとりとした脂のコンビネーションが最高でした。たれは若干甘め。お米が固めのものを使っているのも(当たり前ですが)かなりいい感じでした。

地元民二人も近所で有名なところよりも上手い、と感心していました。

猛暑の中、古い町並みを見て回りました。




2002年8月9日(金)
会社を辞めるということ


人生の中で、別れというのは少なければ少ないほど良いものだと思います。しかし、闇雲に別れを恐れることは、いい出会いの可能性を放棄することと同義となります。
たとえば、あなたが旅行をするとします。見知らぬ土地で、そこで生活している人達と触れ合うと、見ている景色がただのポスターではなく、人が本当に生きている場所であることがわかり、家で旅行ガイドを見ているのとはまた違う実感が湧きます。そして、あなたの記憶の中に、形のない何かが残ります。
別れを恐れていると、自分の中には何も残りません。

会社という小さな組織の中で、私は多くの出会いを得ました。そして、同じ数だけの別れを今経験しています。ただし、別れといっても月曜日の朝から金曜日の夜まで(土曜の早朝までという場合もありましたが)顔を合わせていた人達と、顔を合わせる回数が急に減ってしまう、といった類の別れです。

「本当の別れ」は、全く別の種類のものです。会いたくても、二度と会えない、というのが本当の別れで、私は30年ちょっとの人生の中でほんの数回本当の別れを経験しました。それは、とてもつらく、悲しく、暗くて重いものでした。

本当の別れは、恐ろしいものです。そんな経験は、しなくていいものであればしたくありません。私は、10年程前に親友を亡くしたときに、「もうこれ以上人とは近づきになりたくない」「人生でそのとき幸せなことだと思っても、結果は必ずしもその通りだとは限らない」という思いにとりつかれました。新たに人と近づきになっても、いつかどちらかが死んでしまうのです。そして、自分の希望通りの道を努力して歩んでいても、自分の意志とは全く関係のない理不尽な力が突然働いて、幸せの芽を踏みにじってしまうのです。

しかし、10年余前の経験では、そんなにつらい本当の別れであっても、それから逃げることは出来ないし、逃げて自分の殻に閉じこもって生きていけるわけでもないという結論に達しました。その結論に達するのには、数ヶ月の自分の中での格闘を必要としました。それは、心の中の奥深く、湿って暗く狭い場所に入ってしまった自分を、自分の意志で白日の下に引きずり出すという、酷くつらい作業でした。

今回会社を辞めるという選択をすることも、「本当の別れ」とは違う別れではありますが、つらい作業であったことは間違いありません。お世話になった方々に、自分の意志で背を向けるということは、自分の中で簡単に折り合いのつけられることでは決してありません。また、別れ以外にも、私がこれ以上会社に残らないことにした理由を、その原因を作ったかもしれない人達と議論しなければいけないということは、大変私を苦しめました。勿論私の側には非も原因も何もない、などということを言うつもりは全くないのですが。

ゲームが行き詰まったときについリセットボタンを押してしまうように、人生を簡単にリセットしてしまいたい。リセットした理由を人に聞かれることもなく、出来れば何も言わずに辞めてしまいたい。正直に言ってそんな気持ちに何度も駆られました。会社を辞めるという行為自体が非常にストレスフルなのに、そしてこれまで大好きだった人たちから自分の意志で離れていこうと思っているときに、組織や人の欠点を指摘したり、自分の思い上がりを指摘されたり、などにはとても堪えられない。

そんな逃げようとする気持ちから、自分の背中を強く押してくれたのは、「本当の別れ」からの経験でした。
人との別れから何も得ないと、それはその人と出会わなければ良かったといっているのと同じことです。
大好きだった人達と別れなければならないのであれば、私が辞めていく理由を明らかにし、良くしていけるところがあればより良くなるための道筋を自分なりに考え、伝えていくことが、私がこの別れをポジティブに転じていく一つの重要な作業だったのです。それは、これからも会社で働きつづける私の友人達に対して、私が出来る数少ないことでもあったのですが、自分自身にとってもとても大事なことでした。

会社にいるうちに、会社を自分が良い方向だと思える方向に変えていければよかったという自責の念は、勿論あります。乗り越えられない問題はないのに、自分勝手に限界を設定して、「乗り越えられない」ということを所与のものにしてしまったことも反省しています。

ただ一つ自分の中ではっきりしているのは、全ての経験は私の糧になるし、糧にしなければならないということです。そして、新天地でこれまでの経験を生かしていくことが、お世話になった方々への恩返しになっていくと信じています。

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